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行かざるを得ない状況での出発

2008年連鎖的に発生したリーマンショックの煽りは凄まじかった

震源地のアメリカから日本に到達する時間は津波のように早く

見渡すと周りの会社は次々と倒産し心肺停止状態の一歩手前というところだった

そして私が携わるプロジェクトは消滅してしまったのだった

広告代理店からは事前予告は受けてはいたものの、まさか全ての仕事が無くなるとは思ってもみなかった

組織というのは一歩前進するのにとてつもない時間と労力を要するが、撤退となるとびっくりするくらいの速さを見せるのだった

それでも2008年という年はフォトグラファーにとって革新的な年にもなった

キャノンが2008年に出したEOS 5D Mark IIに一眼レフカメラとして初めてフルハイビジョン動画撮影機能を搭載したのだ

これによってスチールカメラマンは一眼ムービーカメラマンとして二役を担う形となった

紙媒体のクライアントも動画配信サービスへ参入するための足がかりとして一眼ムービーに光明を見出し始めた

私もムービー編集を習うためスクールに通い出したりと、とにかく時代は急速に動いていった

しばらくして流行の波が落ち着いた頃 映像は美しいが、カメラ固定で機動力に欠ける

また音とピントの問題も発生し、カメラマン一人二役では時間も労力もかなり掛かってしまうことが分かった

スチールの現場で即興的なニーズに簡単に対応できるものではなく、やはり事前の段取りが全てなのだ

それでもムービー編集自体に仕事のチャンスを見据えていた私に

romeでスチールとムービーカメラマンを探してると話が舞い込んできた

もちろん私は一つ返事で渡航を決意した


渡航までの一ヶ月はとにかくバタバタだった

考えてみると丸々3ヶ月家を空ける訳だ

調べてみると新たに銀行口座を開設しないとイタリアでお金を引き出すこともできない

他にも携帯を変えたり研修も受けなければならない、それに渡航までの間少なからず仕事の依頼も来てたのだ

2週間程度の旅行にでも行くような最小限の荷物をRIMOWAのスーツケースにまとめ

手荷物はデジタル機材の他、フィルムカメラ CANON 1Nとモノクロフィルム50本を追加した

それでもパソコンを含めるとリュックの総量は20Kgを超えていたと思う


成田空港から約11時間後トランジットでモスクワへ降り立った

シェレメーチエヴォ国際空港は内装に木材を使用していて太陽の光を一身に浴びて眩しく照りつけていた

乗り換え時間はたっぷりあったが、人の波にまぎれて慎重に急ぎ足で税関口に到着する

オーストラリアで乗り換え口を間違えて空港の外に出てしまった痛い思い出が頭をよぎったからだ

周りは簡単に審査を通り過ぎていくのが見えるが、私にはどっちが乗り継ぎなのか入国口なのか全く判らない

意を決して親切そうな職員がいる窓口へ向かうと職員も無知な相手と理解してるらしく搭乗ゲート口を書いた紙を渡してくれた

ほっとしたのもつかの間で、次の身体物検査に向かうと青い制服を着た大女が仁王立ちで私を睨んでる

靴を脱いでこっちへ来いと言うジェスチャーに凄みが漲っていた


事なきを得て再び長い通路を通って搭乗ゲートへ向かうと緊張が解けたのかタバコが吸いたくなった

見渡すと5.6人でいっぱいになりそうな小さな詰所が見える

ゆっくりドアを開けると煙で周りが見えない

なんだか昔の職員室を思い出した

日本のTaxフリーで買ったマイルドセブンに火をつけようと設置されてるシガーライターに手を伸ばすとそばにいた外国人が使えないと首を振ってきた

理解が追いつかない私に慣れた手つきで火のついたタバコを貸してくれたのだった

一服しながらこの場の状況を把握しようと努めてみた

リレー方式で次から次へと小さなかがり火を繋いでいく国際交流の循環の場と機能している事に気づく

リラックスした気持ちで喫煙所を出るとそこからまた通路を歩き一番端の搭乗ゲート口に到着した

そこでは様々な人種が静かにそれぞれ思い思いに時間を過ごしてる

日本人はどうやら私一人のようだった

そして定刻通り私達はrome行き飛行機に搭乗することができた

時間通りというのは欧州ではあまり意味をなさないというのを痛感することが多々ある

何度目か日本への帰国の際、急にストライキが敢行されたことがあった

私たちが途方に暮れてるそばで乗務員が設置してる電話を使い会社と交渉しだしたのだ

なんとか無事交渉が済んで私たちは帰国の途に着けたが、想定外の事態にぞっとした

海外に出てみると私たちが日本人で学んだことはある意味日本でしか通用しない

大海に出て日本独自の美学や美意識 察する心と奥ゆきを自らに感じる事態に遭遇し、

初めて腹の底から日本人であるということを認識する


ローマフィウミチーノ空港に到着すると20時を回っていた

何処か寂れた地方都市に降り立ってしまったのか?薄暗く人の気配を感じることはなかった

まるで空港の倉庫作業場に来てしまったという印象を受ける

荷物を受け取ろうと機械が動く音の方へ向かうとすっかり人だかりは消えていて

私のRIMOWAのスーツケースだけがガタガタと煩く音を立てベルトコンベアーの上を回っていた


そこからレオナルドエキスプレスの乗り場を探すのにまたひと苦労する

聞いてたは話とは全く違っていたのだ

どうにかこうにかなんとかテルミニ駅に到着した時は22時をすぎていた

旅の疲れと眠気で思考が回らないがromeに着いたことは確かだった

外に出ると影絵のような世界があたり一面広がってる

初めて見る石畳は車のライトの光に照らされてまるで鱗のように動いて見える

ぎょっとした瞬間、感じたことにない熱風が私を襲ってきた

ローマの6月は夏だった



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