東日本大震災後の東北で撮影されたビデオ・インスタレーション作品
立ち止まらないマイク・パフォーマンスとシュルレアリスティックな語り口は
共同幻想を生み出す
観るものに迫る「Look」とエンドレスな映像は、強い印象とイメージを残している。
ビデオ作品は、実際に暗闇の中を目を瞑って歩いてもらったそうだ
目を瞑って歩くと、ほとんどの人は真っ直ぐ歩けないという
右へ行ったり、ふらふら左とそれたりする
その様子を見て志賀さんは、
「自分の信じてたものを失った人」の様だと、観察者の立場で語っていた
暗闇の静けさや、土地柄独特の偏東風「ヤマセ」の中で多くの動画が撮影された
歩く人々の姿は、まるで震災で亡くなった人たちの亡霊のように私には見えた。
それは物質世界にいる我々が、時々精神界の事を思い出すようなものである
例えば墓場に足を踏み入れた時のような、そういう感覚を覚えた
ビデオ作品である。
マイクパフォーマンスは「私という人間」の側面を持っている
内容を読み解くというよりも、半ば投影されたかたちで現れる風景である
それは筋が展開してく風景であり、イメージの細部へ観るものの視線が吸い込まれるという
視覚を超えた思考に影響を与える風景である。
イメージが内包してるのは、震災後の復興計画のそれである、その意味諸々を一旦一つの
概念として掴み「私は何者なのか」という、個々の歴史を近代の提示パラダイムするという、ポテンシャルが内蔵されている。
そして「歩く」はブルースチャットウィン「世界は、徒歩で旅する人に、その姿を見せる。」の文脈を用いている
私が「歩く」で思い出すのは、イギリスの詩人William wordsworthだ
1850年に発表したpreludeに収録される
ウェールズへの旅の記憶を綴ったポエムは、人々を歩く旅へと駆り立てた
産業革命が起こる窮屈な都市部に住む人々は、自然豊かな広大な土地への旅を求め
1930年代にはイギリス内で50万人もの歩く旅人が各地を巡った。
産業革命とは、科学革命に基盤を置く技術革新を、前資本主義経済体制において蓄積された財すなわち「資本」と、農業革命により過剰となった農村人口を都市が吸収した「労働力」を利用することにより、爆発的に生産力が向上した歴史的事実を言う。 Wikipedia
本展は資本主義経済、動機の枠組み腐敗とその乗数に言及している
「復興と私」から始まり、
「近代と私」の関係という関係 問題の問題を語っている
ついには「他人の定義でしか私のことを考えられない」に至る
テーマ、パーパス、存在意義が顕在化し、
無尽蔵に震災支援金が東日本大震災に充てられるミッションストーリーはどうだったの
だろうか?
結果は公平さを欠くものだった。
《風の吹くとき》で語られる
農家だった彼は津波に浸かってしまった自分の農地を、政府に「危険」という理由で、
立て直すことを許されなかった。
その代わりに、簡単な草刈り作業で1日2万円を支給される農業支援に携わり、
その時のみの現金収入によって、本来の生業に対する尊厳を失っていきました とある。
本来、資本を生産し自己増殖が資本主義原則である、彼は価値の生産を政府によって
拒否された
彼の労働によって新たな価値の創造することを、妨害されてしまったのだ
外圧と自己運動 外から内部を規定されたことによって、生まれる歪みは壁を越えられないというわけだ。
ビデオ作品と対をなす、拡大されたフォトモンタージュ写真が
壁一面を覆っていた
思考の極度の抽象性は一つの弁証法であり、自己増殖運動であり唯物史観と見ることも
できる
変化の中の永続は、いつまでも見続けられるものの本質を問うている。
意欲するという命題は総合命題であり、戯れに帰納する
志賀理江子
「Waiting for the Wind」 は実は壮麗な儀式にも見えて来て、さっきまで空虚だったものが確かな価値を創造していた。
さばかれえぬ私へ Tokyo Contemporary Art Award 2021-2023 受賞記念展
第3回受賞者の志賀理江子と竹内公太による共同展
2023年3月18日(土)-6月18日(日)
会場 東京都現代美術館 企画展示室 3F
主催 東京都、公益財団法人東京都歴史文化財団 トーキョーアーツアンドスペース・東京 都現代美術館
参考文献
資本論 第1巻 第2分冊 (シホンロン)
著者 カール・マルクス/著 マルクス=エンゲルス全集刊行委員会/訳
出版社 東京 大月書店
最強の思考法「抽象化する力」の講義
著者的場 昭弘/マトバ,アキヒロ出版社東京 日本実業出版社出版年月2018年3月
ブルースチャットウィン 「どうして僕はこんなところに」
角川文庫 池 央耿(翻訳)
William wordsworth prelude
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