top of page

ロバート・フランク paris Minority Report

私が写真集を論じるなら まずはじめにロバート・フランク『paris』 だ

ロバート・フランクと言えば リアリズムの創造に一役を担い

社会の底辺でボロボロになってる人々に向ける主事的視線の『The Americans』が

有名であるが

それと比べると小品である『paris』を論じる事にする

私は2010年より2015年イタリアはromeで作品を作り上げるべく参考にした写真集が

ロバート・フランクの『paris』 だったからだ

『paris』は1950年代初頭のパリを撮影したモノクロ写真図版80点を収録する

その80点の新たなヴィジョンを求めて、私は自らの旅路に5年の歳月を費やした。



ロバート・フランクの『paris』 は

言語:英語 サイズ:22.4×19cm ハードカバー 108ページ 編集はRobert Frankと

Ute Eskildsenが行った

1947年のニューヨーク移住以来2度目となる

ロバート・フランクのパリで撮影した重要な写真が一冊の本にまとめられたのは、

『paris』が初めてである。

その際に撮影された画像のいくつかはメディアの歴史において

アイコニックなものとなっている。

フランクがニューヨーク移住で「新世界」を体験したことで、ヨーロッパの都市主義に鋭い目を向けていたことを示している。

彼は街の通りを人間活動の舞台と見なし、特に花売りに焦点を当てた

と解説は続いた。



気になったレビューを見てみると

現在発行している『The Americans』の印刷版はすべて1ページの写真で占められており、満足のいくビジュアル体験となっているが

『paris』は片端がスパインに対応していたり、一部が見開きページが小口からはみ出している写真があったりする

見開きのページがノドに向かってカーブしているため、情報の多くが失われている

そういった表現啓蒙を良しとしない意見があることは確かだった。



編集の観点からも『paris』を論じようとロバート・フランク関連を探してみる

するとクイック フォックス社より刊行された同名書ロバートフランクが

古本屋で見つかった

片面だけに整理された写真イメージが展開し、反対側は全て余白で占められている

この昭和53年に刊行されたクイック フォックス社のロバート・フランクは

『The Americans』と『paris』 のちょうど中間に位置する本に思え、希少な価値を見出し購入に至ったのだ

帯にはロバート・フランクの歴史が記されてる


ロバート・フランクはそれまでかえりみることのなかった主題を探求し

アメリカの写真界に新風を吹き込んだ

1959年 さまざまな”アメリカの顔”に焦点をあわせた写真集「アメリカン」

The Americansを出版

これはたちまち革新派の礎となった

また彼は1950年代初期のアンダーグラウンドの旗手、ジャックケルアックやアレンギンズバーグの友人でもあり

写真における新しい”リアリズム”の創造に一役を担った

とロバート・フランクの歴史が記されていた。


ロバート・フランクが『The Americans』で訴えた、彼らを支えるインフラと

『paris』での そとはかとない個人的な内省を描いた抽象の世界

もっと言えば『The Americans』で行ったアメリカに触れることで能動的に切っていこうとする価値観との距離

『paris』では『The Americans』で見られる市民感情をぶつけるのではなく

触れてそっと流れに沿っていくというような、装置として呪縛からの解放が見られる

『The Americans』とは違った、固苦しく考えない羅列の手法が見事に

『paris』では効いている。



根本的にラディカルな視点を持ち合わせたロバート・フランクは

コンセプチュアルでポストモダン的と言える

カメラを直接的に使用した決定的瞬間とは区画されるべきなのだ

ゴールデンポイントが重要でない瞬間は確かにあるのだから

精神状態から覚醒状態に到達し、彼自身のプロセスを経て遠近感を失ったフランクの写真は

コンセプチュアルなアプローチに変わり、媒体そのものがメッセージとなり因果関係を

示した



身体の動きの流れに身を委ねるという、感情の接触からなるというようなものだから

『The Americans』のような使いやすいように並べて整えるというより、

ロバート・フランクの『paris』は余白が似合うのだった

そこに余白があってこそ、活写された画面の中の住人たちが絵も言われぬ悲哀が

目に見えぬ音葉を誘い、無意識の世界への没入が感じられる 

そして余白が問う沈黙こそがロバート・フランクが求めた真の異界的身振りなのだった。



再び『The Americans』の考察から『paris』への跳躍を試みる

フランクが父権制度の歪んだ姿をアメリカに見ているその発想は

ポスト構造主義の方向から目に見えるジェンダーではなく

例えて言うなら女性のアイデンティティーの確立

新たなビジョンを求めてるという意味で

女性の主体性を確立しようと模索していた時代の流れが、フランクの姿と

重なって見えるのだ

その背景には60年代カウンター・カルチャー、ヒッピー・ムーヴメント、ドラッグ・カルチャー、チベット密経や禅など

アジア宗教への関心などニューエイジ系ムーヴメント、フェミニズム、エコロジーなどと重なって展開していったことにある。


多様で豊かな見方の乱立をフェミニズムの批評からみてみると

女性に対する抑圧を問題化する視点を持たなかったことに対する反発から「出発」

それは性を巡る問題であるとして

「私的なものは政治的なもの」という立場をとっていた「結婚 家庭内労働 子育て」

異性愛などは私的活動ではなく、父権的な制度であり政治行動の目標になるなど

そういった文化の変容を視野に収め複合的、相互関連的な実践が

文化論として『The Americans』なのだ。



写真という理性を持って真理を見分ける力を示し

身体からも歴史の中の時間と場所からも独立できる理性

その理性という概念をロバート・フランクは『The Americans』で見つけ出したのだった。


既存のディシプリンに収まりきらないロバート・フランク 

本の奴隷とならない『paris』は一つの解釈では到達できないのである

『paris』をポストモダニズムと同じように社会批判の様式から語ることもできるが

意味のある言説と意味のない言説を分別するプロセスが大切となる

その振り分けを行う際に用いる一連のコードはメタナラティヴであり、

そのメタナラティヴは様々な物語を秩序だてて規制するものなのだ。


写真とは知のもう一つのあり方である

その戦略で考えてみると

知の進歩と関係なく意味、権力、行動の構造の変化と関わっているという答えに辿り着く

そういった権力の産出、承認への批判が込められているのだ。


フランクは『paris』でアメリカンの批判から系譜学的に政治や歴史のコンテクストの中で

捉えられなかった対立物 個人のアイデンティティーを系譜学的に決定的なものにした

この本の中でどうやって

どこまでも

生や死、孤独といった人間にとって根源的な主題に迫ることができるか


そんなトランスへの試みは

自らの表現世界の開示はシャーマニズムの文化学が近いかもしれない

ロバート・フランク『paris』を西洋的秩序の逆方向から眺め返す

新たに日本のシャーマニズムの文化学から見てみると、こうなる


無意識の世界の扉と伝統的な扉

シャーマニズムは自らの表現世界の開