ポールマッカートニー 写真展Photographs 1963-64Eys of the storm Review
写真は文脈である。
より抽象化された写真は、目的意識の外に立つ無法劇である。
目から侵入してくる同時性と長期にわたる思考、
数えきれないくらいの修正に耐え抜く何かは、武士道精神に帰結する。
即ち、パーソナルな相互反応、因果関係の前後を語る文脈である。
鬱屈した天気の中、オイゲン・ヘリゲル著書 「弓と禅」を読みました。
ドイツ人の一哲学者であるオイゲン・ヘリゲル博士が弓道修行に精進し、
禅の悟達見性を見出した報告者です。
オイゲン・ヘリゲル博士の立場が、あくまで論理主義に基づいていて、
博士の思考が弓道における禅的神秘主義体験に至るまでの過程が、
自身の心理描写を一貫にして克明に描かれているのが、本書の魅力となっています。
本来は武芸であり、近年ではスポーツ競技に成りかねない武術である弓道が、
術としての根源が精神修行の中に、目標を定めている武芸事では唯一のもののように
感じました。
剣道、空手、柔道にしても、相手がいなければ成立しません。
自分自身を的として狙い、自己自身との対決以外の他事のことには、
一切心を煩わされないという面に特化してるのが、弓道の特徴ではないでしょうか。
第一に、筋肉を使わずして弓を引くことを要求します。
次に呼吸法により精神の集中を要求します。
気が十分に満ち、射ようとする意思邪念を滅却し完全に自己を離脱する。
最後には、的を見ないで的を射ることが必修とされる。
我が射るのではなく”それ”が射るという弓道の奥義は”精神的に射る”という、
解脱の道であり”禅”の境地にその根源を有してると解いていました。
言葉の呪縛によって、体験の力は失われてしまうものです。
水平だけでなく、失墜を通して一種の上昇を見せるオイゲン・ヘリゲル博士の思考の跳躍は
まさに、禅の境地に達した哲人の異界との接触を綴ってる姿勢が描かれており、
その体験記録自体が、一つの時間芸術まで昇華した所以だと考えられます。
また最後の決定的な飛躍に対しての補助にとどめずにいた、そのことが魅力を失わずに
”それ”を理解する一つの理由となっていると考えられます。
東京の街を神秘主義的に禅的知見でそぞろ歩きする。
自然の中にある微妙な磁力に従いながら”それ”がふさわしい方向に導かれる。
日々の散歩の中で出くわす風景が人生と相道してるところまで行き着くと、
予期せぬことが必ず起こるものです。
その瞬間、我が射るのではなく”それ”が射るという境地で”すっと手が出る”
そういった、深淵から湧き上がってくる不作為な写真が見てみたいという、
ところから始まっています。