木村伊兵衛のパリ

更新日:3月12日

パリの街はいつの時代も芸術家の心を掴んで離さない

そして芸術家の身振り 所作というのは、技法は違えど時代の壁を軽々と越えていく

彼らは光の系譜を得ることで、語りと語りのあいだにある「間」沈黙を感知する瞬間

そのものを描き、そしてその全てが断続的で美しい

芸術家たちは、念願の洋行とは裏腹に身体に訪れる軋みと不思議さを持って真面目に

パリの街を活写している。



東京の下町に生まれた若者が、アンリ・カルティエ=ブレッソン的仕草に出会い 従った

時代は変われど人間特性は変わらない木村伊兵衛の写真は、視覚的真実の所在を問いかけている

その根源を問うこと 写真が意味するところまで文学してみる

それは個の実感 体験を抜きに語る術はない

そしてアーカイブとしての写真を、新たな座標軸を提示し語ってみたいという

衝動にかられる。




カラー写真とモノクロ写真という親子関係である写真の対立軸を暫定的に捉え、

科学的な刷新の提起を求める21世紀写真と、いわゆる古典になってしまった

聖書という位置付けのような20世紀写真と、それらの区別は解剖学的見地とは何の関係もないが、カメラは変わらず忠実な通訳者である

出発地点として、かつてのカルティエ=ブレッソンはスナップ写真の自らの弁証を確立した地点においてそれを保留にしたところから、

木村伊兵衛は身体への儀式化したある種の方法を見出し、日本人の民族性によって秘密裡に前進している姿がそこには示されている。


パリを真面目に受け取ろうとする木村の身体からくる生の現場感覚は空間を対象化し、

主体を最小限に意味的安定性まで落とし込むというドラマ化された文法を編み出す 

パリの街の情景と残光 暖かみあるフィルムの絶妙な交わりが「歴史的真実」 

「物質的真実」を生んだのだった

アンビション的な場所で写真という新たな起源への回帰、欲望と同じくらいの深さを持って望郷の念を感じとる

その綴る言葉のスタイルズは、

文彩、メタファ、構成によって写真をエクリチュールしてみるというものだ

その時、写真は初めて自らを語り始める

昭和初期という写真黎明期となった時代に生きた木村伊兵衛の宿命性を言及するならば、 

過去と現在を察知し眺めまわすことにはなく、未来への希望の先取りにあった

木村が未来へ向けた問いとは、「約束」であり「責任の問い」であったのだ。



木村伊兵衛の最晩年のネガを見ると驚くほどシンプルだ

まるでピカソのスケッチブックのようだと形容されるほどに。

写真を深く文学に落とし込むと新しい解釈が生まれるわけだが、

言葉の響きと同じように写真は進み、流れ、写真は変化する

つまり写真は一枚で語るものではないというのが解ってくる。


フィルム1本分、36枚のネガに描かれてる動きの流れは強烈な感情を抱いている

ネガに記された「物語ること」そのものを「すくい上げる」ことがスナップ写真の醍醐味と言える

36枚のストーリーは徹底して真実に基づき、作者は真摯に取り組み決してウソはない姿がそこに見て取れる。


36枚の綴られた痕跡は「ただ在る形」であれば良い、そこにある混沌平面世界には無意識が必ず入り込むからだ

時間と偶然が絡みつき最終性である無意識が入り込みんだ時、新しい解釈 個性が際立ってくるのだ。

膨大な時間と偶然の共にありたいと願う二律背反の落差を通し、デジタルの過度な単純性を問うとするならば、


デジタルとはいわばアーカイブ化されたもの

アーカイブとはつまりそれをいわば印刷に回すというもの

アーカイブの瞬見というのは、生きたあるいは自発的な記憶、 

あるいは想起ではなく技術的な記録媒体のある種の覚書的で、人口補助器具的な経験である

無傷なテキストを堅牢で耐久性のある仕方で保存し、符合を消去から保護し救済と保証を確実にする

外にある記録媒体、あるいは個体身体の上への痕跡書き込みである 

そういった「不思議なメモ帳」といったところだ

写真アーカイブとは、その最たる精髄をなす極限側として記憶され記録される

「写真資料体」である

アーカイブ化された出来事が、かつてあった

という歴史的な記憶の中に表れ刻み込まれているということによって、絶対的な特権は

互いに結びついている

※アーカイブの病 フロイトの印象 ジャック・デリダ著 福本 修 訳 法政大学出版局



デリダ的マトリックス表を思い描いて「ウィルス」を例にたとえると、

ウィルスは細菌ではない

生物でもなければ無生物でもない

符合化と複合化に逸脱をもたらし、コミュニケーション生物学の領域にも混乱をもたらす

決定不可能性を持ち出すと、ウィルスが生物でもなければ無生物でもないとしたら、

「決定可能な存在」である

ところがそれはまた、哲学の外側に、例えば映画の中に見出すことができる。


こうした形而上学との一見無縁とも言える関係の揺さぶりは

内側にいながらも外側に立つという知見が必要になってくる

映画にしかり写真にしかり、その正体は時間と偶然の関わり合いを読解し翻訳によって

「物語ること」そのものを描くという「長巻き作品」なのだから。


テキストとして抽出して論じてはみたものの、絶妙なねじ曲げはいわば「前進」である

事もの世界の情景が、人生で一番輝かしい幸福な時期として「垂直」に浮かび上がらせる

ならば

心持ちで死へのさざ波から、ゆっくりと生へ向かわせている「傾斜」があり

ならば写真とは「振る舞い」であって苦痛とは無縁なものであるはずだという思念が

「水平」に伸びていく


何でも自分で出来ると思って行う行動


その創作そのものがアートなのだ


一人で出来ない


それを自覚した時 ビジネスに発展していくのだから


何も間違いではない


ただ気づくことだけ


結局のところ最後まで残るのは最初からあったものなのだ


   Avenue des Champs-Élysées  © Takuji Otsuka




参考文献 アーカイブの病 フロイトの印象 ジャック・デリダ著 福本 修 訳 法政大学     出版局

     既にそこにあるもの 大竹 伸朗/オオタケ,シンロウ 出版社東京 新潮社


     カスバの男-大竹伸朗モロッコ日記 著 大竹 伸朗 都築 響一 求竜堂


     ビ   著 大竹 伸朗  新潮社


     テレピン月日    著 大竹 伸朗  晶文社 

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