今月10月15日 詩的な歩みの第一歩『デューン』という壮大なる映像叙事詩が
開幕された
デューンという起源に遡ったドゥニ・ヴィルヌーヴ監督の魂の躍動に私たちは遭遇する
原作『デューン』の特徴は、暮らしや日常を描いてることにある
それは通常のSF作品に見られない特徴であり、他とは一線を画してるところである
いわゆるスペース・オペラで見られる光速の壁を破ることはないしハードSFの金字塔
『ブレードランナー』とも違う
人造人間も出てこなければ、登場する砂漠の民フレーメンたちは誰も電気羊の夢は
見ないのだ
つまり『デューン』に事件や出来事はさほど重要ではないということである
過去に複雑で難解なストーリーにより映画化不可能と言われ
1970年代アレハンドロホドロフスキーが映画化しようにも資金繰りがうまくいかず頓挫し
デビットリンチによって1980年映画化されたが、ラフカット版は4時間以上だったものを編集で大幅に尺を短縮し2時間以内に収めたことでダイジェスト版のようなまとまりに欠く内容になった
のちにリンチ本人も失敗作と認めている
そして稀代の天才監督2人が失敗した『デューン』を世間は忘れさられる
その後2000年にリチャード・P・ルビンスタインがテレビシリーズ『デューン/砂の惑星』を製作しているが、所詮テレビ用とあって話題には上らなかった
フランク・ハーバートのSF大河小説『デューン』は
アラビアのロレンスを目指してつくられたというのは有名な話である
実在のイギリス陸軍将校のトマス・エドワード・ロレンスが率いた、オスマン帝国からの
アラブ独立闘争(アラブ反乱)を描いた歴史映画であり、戦争映画である。
描かれてるテーマは存在意義であり
ミッションストーリーは技術、思想である
物語は人々の血気、その血気を人々が強くする動機の枠組みそのものを描いているのだ
デューンはそれを模して宇宙銀河帝国 皇帝が支配する大統領家の権力争いの話である
物語の舞台 デユーンの利権を巡って争うアトレイアス家とハルエンネン家の対立を描いているのだ
銀河見取り図は存在しない 身近で誰一人宇宙に行っていない『デューン』というSFを考えてみる
ガジェット的アンドロイドの登場 ジェットコースーに乗ったかのような
ハイパージャンプの連続使用など、没入体験促す脳内SF映画が台頭してきてる昨今の
SF映画製作というのは
疑似科学的な説明で観客を論破し引っ掻き回して得意になっても意味はあるのだろうか
むしろ私たちの知らない宇宙への憧れ、畏怖畏敬の念
物語の主題と客観性を明確にし、そして行ったことのない宇宙を題材にするという
観客にたいしての配慮はこの先もまだまだ必要なのである
それを成功させたのが『デューン』と対極に語られる『スター・ウォーズ』3部作品だ
源流ジョージ・ルーカスが描いたのは
武士道のコンセプチュアリズム であるのは間違のないところである
しかしそれだけではない
ジョージ・ルーカスが目指したのは観客の目を銀河全体の話ではなく辺境の星に向けることだった
『スター・ウォーズ』がスペース・オペラであり、武士道のコンセプチュアリズムの話であることは先ほども述べたが
その物語の中にルークという主人公の成長と、親と子の対立という王道タナトスを盛り込んでいる
そして銀河という私たちに想像もつかない漠然とした内容の話を、とある辺境の星の出来事と言ってのけ、私たちに示すことで視線を一気に集めたのだ
その周辺における具体的な世界を示すことで親和性が生まれた
私たちの心は安心して銀河宇宙に飛びたつことが出来て、遥か彼方ジョージ・ルーカスが示す辺境の地に降り立つことが出来た
そこで行われてる暮らしや日常の驚きに夢中になったのである
『デューン』を監督するということは時代の寵児であり、天才性を認められた人間のみ
任命される案件である
過去の呪縛にとらわれず、そして失敗は許されない
監督とはいわゆる主人公に自己を投影するものだがドゥニ・ヴィルヌーヴ監督に
その形跡は感じられない
むしろレベッカ・ファーガソン演じる母親役レディ・ジェシカに重きを置いてるように
感じられる
振り返るとドゥニ・ヴィルヌーヴ作品は女性が主役の映画を撮っている
注目を浴びた『灼熱の魂』『メッセージ』での極限状態での母の葛藤と愛情を深く掘り下げ
母性という強烈なメタファーをもって、母をミューズとして映しだそうという苦しみに芸術性が感じられた
自身の伝統的な描き方、そのものに監督の精神性が切実に賭けらる場合のみ成功の道は拓かれるのだ
ここでドゥニ・ヴィルヌーヴ監督作『デューン』を観る前に、
デビットリンチ版『デューン』を実に35年ぶりに振り返ってみることにした
年月とは不思議なもので、当時の”世紀の駄作”を観てしまったという背徳感はない
内容もそれほど期待していないので「心の声がやけに多い」くらいの面持ちで視聴することができる
デジタルリマスターで美しくなったデビットリンチ版『デューン』、
時を超えて実は傑作であったと思うに至ってる
回想録でモノクロ映画にしたかったとリンチは言っている
グロい悪趣味を貫いた『デューン』はここにきて息吹を吹き返したように思えてくる
悪趣味な成功事例としてジョージ・ミラー監督『マッドマックス 怒りのデス・ロード』のような前例があるだけに、
異なったものに注意を向けれる複眼的なバランス感覚の持ち主であったり、現実との関係の同時性を示せるのであれば成功する可能性はあるのだろう
そして原作に引っ張られるよりはリンチのような、飼育して肥えた変態性を多元的に放出し注目を向けた方が『デューン』は良いのかもしれない
結局私たちが観たいのは面白い映画なのだ
そう考えると、
ドキュメンタリー『ホドロフスキーのDUNE』で不滅文のはったりを語るホドロフスキーの『デューン』は撮るに至らなくて正解だったかもしれない
そして本題である
ドゥニ・ヴィルヌーヴ監督作『デューン』を見た感想だが
映像は文句のつけようが無く素晴らしい
神秘性をまとい確かな価値ある姿勢で監督が自身最高傑作というだけのことはある
が、しかし本作の内容はリンチ版の焼き直しと補足映画でしかない
全体をモノトーンで締めて重厚感を増しても
一枚の絵画のような緊張感ある美しい場面を作り上げてもだ
リンチのような本能的でおののくような変質性を見ることはない
理性的であり論理的で構築的枠組みのデザインに全てを捧げた、というような印象を受ける
讃えて導入部分として本作記紀はそういう形式をとったのだろうと私は認識している
ドゥニ・ヴィルヌーヴ監督作『デューン 』とは原作が描いた公式な資料をもとに
監督自身と異なった記号の感付という多彩なソースのヴォイスを照合することに意義がある
革命前夜 静けさにある陶酔状態と人々の熱狂
スパイスがもたらす放射線量のマッピング
到達しなければならないのは覚醒状態である
何故ならヴォイスはヴィジョンであり世界を見通す眼力のようなものだから
次回作がドゥニ・ヴィルヌーヴ監督版『デューン 」の本領であるはずだ
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